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あしあと

    古地図アプリで舞鶴再発見!「京都舞鶴まち探検マップ」が完成~スマートフォンを片手にあの時代の舞鶴を歩こう~

    • [2021年12月23日]
    • ID:8299

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    古地図アプリで舞鶴再発見!「京都舞鶴まち探検マップ」が完成~スマートフォンを片手にあの時代の舞鶴を歩こう~

    イメージ画像

    概要

    ・スマートフォンのアプリに搭載された古地図をもとに、舞鶴市に残る歴史のゆかりを感じてまち歩きができる「京都舞鶴まち探検マップ」が完成しました。
    ・古地図アプリ「ambula map」の中に、新しい舞鶴バージョンの機能(複数の古地図を切り替えられる)を追加して実現したものです。
    ・このシステムをまちの記憶のアーカイブ基盤として活用し、公民館講座やワークショップなどで市民の発見した舞鶴の魅力を追加していきます。
    ・この取り組みを通して、市民がまちを発見し、学び、伝える「地域学」を促進するとともに、観光などにも活用し、「ITを活用した便利で心豊かな田舎暮らし」を実現していきます。

    アプリのダウンロード

    パソコンでも見ることができます

    田辺城城下町エリア
    田辺城城下町エリア① 江戸時代 田辺籠城図1 本図は熊本系の田辺籠城戦を描いた絵図です。永青文庫本をベースとしながら、城内の様子や攻城方に関する描写・記述がより詳細となっています。
    また、最大の特徴は、7月22日から25日までの籠城戦の戦闘の様子が書き込まれていることです。注記の内容は、宮村出雲の「丹後田辺御籠城覚書」の記述とよく合致します。
    城下町に目をやると「こんや町」「本町」「丹波町」など現代に続く町名が確認され、高野川河口には小舟が係留されています。

    法量:124センチ×106センチ
    年代:江戸時代
    所蔵:舞鶴市
    田辺城城下町エリア② 江戸時代 田辺籠城図2 本図は、慶長5年(1600)の田辺籠城戦を描いた「天守台」を中心に堀と石垣・城壁によって画された田辺城の縄張りを確認することができます。
    また城門・櫓・屋敷等といった城の構造物が描かれ、各所に配された籠城方と、竹垣を廻らし城を包囲する攻城方の陣所配置と旗印が詳細に記されています。
    さらに城の西側には南北3筋・東西4筋の街路によって区画された城下町の方形の町割りが描かれ、「こん屋町」「丹波町」など現代に続く町名が確認できます。
    このように本図は、籠城戦のみならず細川時代の田辺城の縄張り、城下町の様子を伝える貴重な史料といえます。

    法量:120センチ×90センチ
    年代:江戸時代
    所蔵:大泉寺
    田辺城城下町エリア③ 1673年 田辺城図 牧野氏時代の田辺城と城内侍屋敷の屋敷割りが描かれた延宝・元禄時代の絵図です。
    侍屋敷は屋敷地ごとに仕切られ、間数・坪数とそれぞれを配分された家臣の名前が記されています。
    大手門の外、職人町通りにも町屋に交じり、藩士の屋敷地が点在しています。

    法量:118センチ×112センチ
    年代:延宝・元禄年代(1673~1704)
    所蔵:舞鶴市(牧野家文書)
    田辺城城下町エリア④ 1692年 田辺城西側石垣修復伺図控 田辺城は、関ヶ原合戦後、細川氏に代わり入部した京極高知によって南側・東側に拡張され、本丸を中心に二の丸・三の丸・外郭を備えた輪郭式の城郭に整備されました。
    しかし高知の跡を継いだ高広が宮津城に移ったため、田辺城は破却され、櫓・門・高塀は1か所もなく石垣も所々崩れるといった状況でありましたが、寛文8年(1668)に京極氏のあとをうけ藩主となった牧野親成により再築されました。
    本図は牧野氏による再築後、元禄5年に破損した田辺城の石垣の修復を幕府に願い出た際の図面の写しである。
    本図によれば、このとき外堀の北西側の石垣が長さ142間4尺、高さ2間にわたって孕み、またその上部の塀についても同じ長さにわたって破損していました。

    法量:104センチ×83.5センチ
    年代:元禄5年(1692)
    所蔵:舞鶴市
    田辺城城下町エリア⑤ 1727年 丹後国田辺之図 田辺の城下町は、田辺城を築城した細川氏によって建設され、その後、京極・牧野氏の時代に拡張・整備されました。地子を免除された本町10町と地子負担の地子町6町の合計16町で構成され、これに下級藩士の居住する組町・手代町の2町が加わりました。城下町は高野川によって東西に二分され、高野川右岸の各町を橋東、同左岸を橋西と呼び、町のなかほどに架かる大橋が領内交通の起点となりました。
    田辺城城下町エリア⑥ 1809年 竹屋町・寺内町裏川筋絵図面 竹山地とその対岸寺内町の江戸時代後期の様子を描いた絵図です。
    竹や町は廻船業に携わる船問屋が多く住み、城下経済の中心として栄えました。
    本図はその竹山地の反映を示すように、高野川沿いに多くの「蔵」が建ち並び、その間に「サシオロシ」(船荷の揚げ降ろし場)と「舟細工所」が点在しました。また、加工には多数の「舟小屋」がならび、突端には船行する船を見張る「御番所」が位置するなど、港町の景観がよく表されています。

    法量:155センチ×82センチ
    年代:文化6年(1809)
    所蔵:舞鶴市
    田辺城城下町エリア⑦ 1872年 丹後国加佐郡舞鶴竹屋町地曳絵図 竹山地とその対岸寺内町の江戸時代後期の様子を描いた絵図です。
    竹や町は廻船業に携わる船問屋が多く住み、城下経済の中心として栄えました。
    本図はその竹山地の反映を示すように、高野川沿いに多くの「蔵」が建ち並び、その間に「サシオロシ」(船荷の揚げ降ろし場)と「舟細工所」が点在しました。また、加工には多数の「舟小屋」がならび、突端には船行する船を見張る「御番所」が位置するなど、港町の景観がよく表されています。
    田辺城城下町エリア⑧ 1899年 丹後国田辺舞鶴城御殿図 田辺城の二の丸御殿を描いた絵図です。
    二の丸御殿は、大書院・御広間・中奥の間・御部屋・台所などからなり、藩主が儀式・執務を行う公的な場として、また日々の生活を送る私的な場として、城内でも特に重要な施設でありました。右下に築山・池をともなった庭園が描かれるが、これは現在の心種園にあたります。

    法量:241センチ×168センチ
    年代:明治32年(1899)謄写
    所蔵:舞鶴市
    舞鶴鎮守府エリア
    舞鶴鎮守府エリア① 1813年 溝尻村新田并川筋之図写 本図は、祖母谷川加工の新田開発の様子を描いた絵図です。赤色部分は享和3年(1803)までの干拓地、黄色は文化10年の新干拓地です。
    祖母谷川は現在よりも東側を流れており、川の付け変えや、浮島周辺の干拓が年を追って進んでいたことがわかります。

    法量:114センチ×104センチ
    年代:文化10年(1813)
    所蔵:個人蔵
    舞鶴鎮守府エリア② 1861年 志楽谷・祖母谷川尻新田開発場分間之図 祖母谷川の志楽川が流入する舞鶴湾の東億にあたる所に、浮島(渕島)といわれる島がありました。この周辺は、江戸時代中期より盛んに干拓が行われました。
    この絵図は黄色の部分が文久元年より前の干拓、赤い部分が文久元年の干拓です。緑の山の部分は干拓用材を供給した松ケ崎山であり、文久3年の情報を貼り紙しています。

    法量:81.5センチ×77.5センチ
    年代:文久元年(1861)
    所蔵:個人蔵
    舞鶴鎮守府エリア③ 1873年 第十五大区丹後国加佐郡五ノ小区余部上村見取図 第十五大区丹後国加佐郡五ノ小区余部上村見取図
    舞鶴鎮守府エリア④ 1901年以前 舞鶴要港旧状図 舞鶴鎮守府が設置された北吸から余部下付近の「旧状」、すなわち鎮守府設置以前の状況を描いた地図です。
    作製年は不明ですが、少なくとも「北吸村」「余部下村」などの村名が記載されることから、町村制が施行される明治22年(1889)以前の状況が表現されています。
    今では大きく変貌した北吸、余部下の集落や街道、海岸線の状況を具に読み取ることができます。

    法量:132センチ×103.5センチ
    年代:明治34年(1901)以前
    所蔵:舞鶴市
    舞鶴鎮守府エリア⑤ 1901年頃 余部鎮守府附近新市街地平面図 現在の東舞鶴の市街地整備に関する計画図です。作製年は示されていませんが、「水平隊道」(現 道芝トンネル)付近の注記に「余内村」とあり、余部町成立以前であることから、明治35年(1902)6月1日以前に作られたものと思われます。
    極めて整然と引かれた朱の計画道路線や河川流路予定線が現在の東舞鶴市街地の状況とほぼ一致しており、ここに示された計画がほぼそのまま実施に移されたことが理解できます。
    それと同時に、この図には市街地整備以前の旧倉梯村付近の様相が一軒ごとに丁寧に示されており、旧村の景観を復原することのできる貴重な資料です。
    新旧2つの時期の様相が重なり合って表現されたこの地図は、東舞鶴の歴史的変遷を知るうえで不可欠な資料といえるでしょう。

    法量:50.5センチ×41.5センチ
    年代:明治30年代(明治34~35年頃か)
    所蔵:舞鶴市
    舞鶴鎮守府エリア⑥ 1903年 舞鶴鎮守府所在地余部町市街町名明細図 明治35年に余部町となった一帯に造成された新市街地部分の道路名及び番地表示が示されています。番地表示をよくみると鎮守府の西門近くに2つの「一丁目」があり、それぞれ南部と西部に向かって番地が連続しています。南部は余部上、西部は余部下となりますが、それらの地名の記載はないため、一見するとわかりにくくなっています。
    地図の右下に明治39年6月1日付けの舞鶴鎮守府参謀による検閲済印があります。

    法量:66.5センチ×55センチ
    年代:明治36年(1903)認可済
    所蔵:舞鶴市
    舞鶴鎮守府エリア⑦ 1917年 新舞鶴市街地図(初版) 鎮守府の検閲・許可を得て発行された新舞鶴町の市街図。裏面には新舞鶴町の紹介や町勢情報が印刷されています。大正6年(1917)の初版から昭和11年(1936)の5版まで版を重ねました。

    法量:54.5センチ×39.5センチ
    年代:大正6年(1917)
    所蔵:舞鶴市
    舞鶴鎮守府エリア⑧ 1923年 舞鶴鎮守府家屋営造物配置図 明治44年(1923)3月時点の舞鶴鎮守府の海軍工廠造兵部兵器庫(赤れんがパーク)周辺の建物配置図。
    舞鶴鎮守府エリア⑨ 1924年 舞鶴を中心とせる日本海交通鳥瞰図 「大正の広重」こと、吉田初三郎による鳥瞰図です。画面の大部分が現在の舞鶴市域が占めており、左側から舞鶴、中舞鶴、新舞鶴の各市街地が描かれるとともに、大きく誇張・湾曲された海岸線には舞鶴軍港(要港部)、舞鶴・新舞鶴をはじめとする大正の港湾、各地の海水浴場や魚釣場といった様々な施設が表現されています。
    この鳥瞰図の刊行は、ワシントン海軍軍縮条約によって舞鶴鎮守府が要港部へと変更された大正12年(1923)の直後にあたります。軍港都市としての規模縮小を余儀なくされた舞鶴は、貿易都市として発展する道を模索していました。本図内には、舞鶴・新舞鶴の両港から朝鮮半島、樺太、北海道に航路が伸び、日本海交通の要衝としての舞鶴の位置づけが印象的に描かれていますが、この頃の舞鶴の状況を適切にとらえたものと評価できます。
    広域の結びつきを的確に表現した見せ方/魅せ方となっているのは、「大正の広重」の面目躍如といったところです。
    全体として独創的なデフォルメが施されていますが、描かれた建物を個別にみていくと、現地の状況に関する基礎的な理解を得たうえで誇張等がなされていることがわかります。例えば、現在の舞鶴市役所付近をみてみると、そこには数棟の赤れんが建物が並んで表現されてることからも、現地調査を行ったうえで配置していることは明らかです。
    舞鶴鎮守府エリア⑩ 1926年 連合艦隊歓迎 新舞鶴市街案内図 連合艦隊歓迎 新舞鶴市街案内図
    舞鶴鎮守府エリア⑪ 1926年 連合艦隊歓迎 中舞鶴町略図 連合艦隊歓迎 中舞鶴町略図
    舞鶴鎮守府エリア⑫ 1936年 新舞鶴市街図(第5版) 鎮守府の検閲・許可を得て発行された新舞鶴町の市街図。
    舞鶴鎮守府エリア⑬ 1945年 舞鶴鎮守府家屋営造物配置図 昭和20年(1945)8月時の舞鶴鎮守府軍需部(現在の赤れんがパーク)周辺の建物の配置図。

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